現在までにレコレクショヌールが商品として輸入したコレクションを、購入原価とともにご紹介します。

  <目次>

トラーゲグルテ
アルゼンチン軍ホルスター
Dディ・アサルトヴェスト
ヴァッフェンSSシルム・ミュッツェ


【コレクション・カテゴラライズド 4】

WW2ドイツ軍の見えない主要野戦装備
トラーゲグルテ

「第2次大戦時のドイツ軍の個人野戦装備の中核をなすものは何か」、またはもっと楽しく、「あなたが最も印象的だと感じるWW2ドイツ軍装備は何ですか」という質問には「Yストラップ」と答えられるかたは多いことでしょう。重量感のある黒革製でたすきのようにがっちりと野戦服に食い込み、背面では大きなDリングが強い視覚効果を与えます。実物も比較的入手しやすく、またリエナクトメント目的のレプリカや、戦後他国軍の流用・代用品のアベイラビリティも豊富です。Yストラップは戦争期間を通じてのWW2ドイツ軍野戦装備の代表のようにされがちですが、開戦直前の1939年に採用されたYストラップは、当時の写真の観察などから、実際にはその広範囲な支給にはとても長い時間がかかっており、1943年、連合軍の反攻の直前になんとか必要な兵科に支給されていったということが明らかになってきました。そのため、近年のミリタリア研究ではYストラップの「戦争全般を通じての主要な野戦装備という評価に変化」が出ています。

もちろん、そんなことは常識で、Yストラップが採用される前は背嚢のストラップでベルトを吊っていたからである、現にポーランドやフランスでの作戦では背嚢をもたない兵士たちはYストラップをしていないではないか、というのも常識的な考察です。しかし実際にはドイツ軍野戦装備においては、Yストラップを支給する以前に、通常はコレクター間では「被服の付属品としてしか考えられていないもの」で背嚢非着用時に腰に掛かる野戦装備の重量を着用者の体に均等に配分しようとしていたのです。野戦服フェルトブルーゼのベルト装備部分に4箇所ある側面フック(ザイテンハーケン)を上衣内部から支えていた、Tragegurte トラーゲグルテ、コレクター間で「内蔵サスペンダー」と呼ばれているものがそれです。ただのフック固定用ベルトではないか、と思われがちですが、実はこのトラーゲグルテ、その製造概念には我々の想像を越えたものがあり、さらに興味深いことには近年、野戦服フェルトブルーゼの再評価をもたらし、さらにひょっとすると、戦争中に廃止されたこの装備がもし継続使用されていればドイツ軍はYストラップを開発しなかったかもしれないという疑念まで呼び起こし、ドイツ野戦装備の代表―Yストラップが少々色あせてしまうような気さえするものなのです。

Tragegurte内蔵サスペンダー/トラーゲグルテの採用は1934年11月1日(陸軍布告(Heersmitteilungen)第34号83番)で、フェルトブルゼの内装を通して装着されるものでした。背嚢と背嚢直結サスペンダーを連結していないときにベルトに掛かる、ベルト本体、弾薬入りポーチ、銃剣+剣吊、雑嚢、水筒、さらに必要に応じてロール状に巻いたポンチョ、飯ごう、ガスマスクの重量はかなりのものです。トラーゲグルテの構想は、この重量をフェルトブルゼ腰部前後左右4箇所のシュヌーレッヒャー(Schnu(ウムラウト)rlo(ウムラウト)cher)に裏から表に出して固定された側面フック(ザイテンハーケン)でささえ、これとトラーゲグルテと連結し連結し、掛かる装備の重量を両肩に分散させるものでした。トラーゲグルテが使用されていた当時はYストラップは採用布告はされていても、まだ存在しません。トラーゲグルテはそれ以前には存在しなかったものでフェルトブルーゼと一体化した、本質的付属品でした。トラーゲグルテを単なるストラップとするならば、ドイツ語には他の表現法があります。ライフルの背い革、スリングはドイツ語でTrageriemen,トラーゲリーメン、ポンチョ固定用ストラップは本来外套用とされるのでMantelriemen, マンテルリーメン。ここで旅行ドイツ語会話をなさったかたなら大抵は聞いたことのある用語、飛行機のなかで締める安全ベルトはSicherheitsgurt(Gurteは複数)です。Sicherheitsはエスデーのエスですからこれもご存知の方が多い単語、そして命を預かるだいじなベルトを示す単語がgurteであることとは単なるストラップとは違うという意図がうかがえます。 (上記シュヌーレッヒャーの、シュヌーは靴紐シューシュヌー、ツェルトバーンテント用のツェルトシュヌーのシュヌー、レッヒャーは穴、くぼみなどを示すもので「紐抜き穴」の意味ですが、この場合はここに紐を通すということではなく、この穴に糸をかがって補強した製法がスモックなどの絞り紐の紐通し穴と同じものだったからです。)

このトラーゲグルテは現存数が少なく、なかなか現物を観察する機会は少ないのですが、当時のドイツでは貴重品である棉製であり、実際に手にとってみるとその非常に緻密な製法に驚かされます。色はほとんどが薄いグレー色、フェルトブルゼ裏地の染色に近いものです。長さ約1メートル、両端に各15個のアイレット(糸でかがった貫通ホール)あり、中央部分は約20センチ強の長さで幅約4.5センチ。両端は各約40センチで、幅は約3センチと細くなっています。黒または青系の油性スタンプが押され、納入業者と納入年度が記載されています。現存するトラーゲグルテの納入年度は多くが1939年または40年です。トラーゲグルテの構造上の特色は本体中央部分、20センチ強にわたり着用者の肩にあたる部分が織り出し製法により作られており、全体がアーチ状にゆるいカーブをつくっています。織り出し製法という初期投資に時間と資金が必要で、またこの設備を持つ工場でしか製造できない製法を選んだのには以下の理由があると考えられます。 1)トラーゲグルテの肩にあたる部分に縫製などによるしわ、たるみなどの凹凸を発生させることを避けることがなされたため。これらの凹凸は場合によってはシャツの上に直接着用することになるフェルトブルゼに装着し、野戦装備の荷重をかければ、簡単に着用者の素肌にチャフィング、擦傷(さっしょう)を発生させる。擦傷のある兵士は行軍に支障をきたし、また感染症等の原因となるからです。 2)フェルトブルゼの設計と同じくトラーゲグルテの開発は非常に慎重にされています。トラーゲグルテのアーチ上のカーブは着用時の着用者への装備の荷重を最小限にさせるため綿密に計算されており、常に同一のカーブを持っていることが求められました。ミシンなどを使う縫製技術者にこのカーブを正確に作る訓練をするよりも、織りだし製造機で完全に統制したほうが容易であったはずです。 3)時間節約という単純な理由。織り出しはドイツが得意とするインシグニア類などの製法にも似て、縫製よりも圧倒的な速さで製品を完成させます。陸軍の最も初期のフェルトブルゼはすでに1933年5月4日より製造されており、トラーゲグルテの採用決定の10ヵ月後、35年9月9日(陸軍布告報Heersverordnungsblatt第35号505番)には量産型となるフェルトブルゼが生産開始されることになっていました。既述のようにフェルトブルゼとトラーゲグルテは一体であることから、一定数の短期における製造が必要だったわけです。

このように、贅沢が許された時代の初期野戦服の脱着式アクセサリーと考えられがちな、トラーゲグルテは、実は必須の品で、「服の内部に着こんだYストラップ]だったわけです。さらにこのトラーゲグルテは野戦服フェルトブルゼの本質的構成物であることから、取り外しはできるが、使用していない状態でも、シュヌーレッヒャー下部に縫い止めされた金属フックにより固定され、常に服とともにあり、トラーゲグルテなしの野戦服フェルトブルゼはありえないという考え方でした。この考え方をさらに推し進めるとフェルトブルゼ+トラーゲグルテの構想は背嚢を背負わない状態で、背嚢ストラップの枠組み(Gestell、ゲシュティル、フレームというような意味ですが、この場合は装備のシステムと考えるべきでしょう。)から独立させ、上衣自体をサスペンダーとし、必要な個人装備の重量を肩に分散しつつ運搬しようという構想となります。このことは野戦装備と被服を一体化した、ということで非常に革新的な構想であったのかもしれません。そののちドイツ軍はフェルトブルーゼ+トラーゲグルテの組み合わせを、1939年にYストラップ、Koppeltraggestellの採用により更新しようとしました。つまり、Yストラップはトラーゲグルテの後継装備であったわけです。この考察は以下の布告の日付で裏づけられるものです。トラーゲグルテの廃止は1939年4月18日、陸軍布告(Heersmitteilungen)第39号328番によって決定されたものですが、この布告第39号328番のなかで、同時にコッペルトラークゲシュティル補助ストラップ付き(Yストラップ)を初めて陸軍各ライフル歩兵中隊において採用することを規定しています。この日付はYストラップの採用年月日として各資料で広く引用されているものです。興味深いことに、トラーゲグルテの廃止についてはの布告は2回出されています。2回目は陸軍布告第43号364号でその発効は1943年4月1日でした。この39年4月以降の4年と17日間という時間差は、開戦から43年初頭まで戦争のほとんどの間を占める長い間、本来Yストラップが更新するはずだったトラーゲグルテが使用され続け、Yストラップの支給が遅れたことを示してます。

別体トラーゲグルテが廃止された後の戦時型フェルトブルーゼでは、4つのアイレットを備えた長さ8センチ幅3センチの固定式のザイテンハーケン吊りがフェルトブルーゼの4箇所のシュヌーレッヒャー上方に縫製固定されました。幅3センチとは当然のことで、廃品利用された正規トラーゲグルテがこの長さに切断されて付けられるとともに、急速に普及した化繊製裏地素材も使用されるようになってゆきます。フル野戦装備の重量を分散すべく以前はあれほど慎重に作っていたトラーゲグルテが素材の弱くなった戦時型フェルトブルゼに直接縫いしてその荷重に耐えられるのか、と考えてしまいますが、当然Yストラップ、コッペルトラークゲシュティルm.h.と併用することを前提にしているため、想定された耐久重量は軽くなっていることになります。

トラーゲグルテがこうして長い期間使用されていたにもかかわらず、当時の記録写真を慎重に見ていたコレクターたちも、Yストラップのみを意識していたためとはいえ、フェルトブルゼの裏にあったであろう見えない野戦装備に気が付かなかったのは無理からぬことでしょう。またトラーゲグルテの存在を知りつつも現物を見ることのなかったコレクターたちは、服に固定されたザイテンハーケン吊り、トラーゲグルテのない42年製造以前のフェルトブルゼを常時見つめていたわけで、どうしても思考の出発点が後期のザイテンハーケン吊り下げ方・戦時型となります。(レコレクショヌールの担当者もそうでした)入手困難のトラーゲグルテを初めて観察する機会があっても、「さすがは初期、ザイテンハーケンの固定法にしてもわざわざ別体のストラップを作るなんて。贅沢だな。」と浅い考察で帰結していしまいます。初期の生産品は優れている、というのは間違いではないながらも注意が必要で、これら初期の装備の構想は、当時はわずか総数10万人の配備しか認められなかったワイマール共和国軍時代に始まっており、極端な少数精鋭・常に良質なものを追求しており、生産性などの軍装備の基本があてはまらない場合があります。これは戦争後期の警察野戦被服および装備にも観測される現象なのですが、こういった考察を経て、長い時間がかかって、Yストラップの支給の遅れ、そしてトラーゲグルテとYストラップの連続する関係は明らかになってきたものといえます。

このようにYストラップとトラーゲグルテについての考察は被服であるフェルトブルゼの開発概念と深い関係にまでいたるものでした。野戦装備と被服とは、銃器類と異なって、着用者を守るものであるがゆえに、外観からでは解らない意図や事実が多くあります。このような事実に基づいた考察は近年各国で活発になされ、骨董コレクションと考古学が連携するような、それでいて決して堅苦しくない、ミリタリア・コレクション独自のエキサイティングな楽しさがあります。 関連して、 軍の上衣はRockという呼称が一般的であったのに、軽上衣、あるいは「機動上衣」ともいうべきBluseという言葉を初めて始めて使用し、装備を全て支える構想を盛り込んだドイツ軍野戦服フェルトブルゼは基本型の登場が1933年といいます。アメリカ軍は41フィールドジャケットという独立した野戦服を持っていた先進的な軍隊であるという説がよく語られますが、その開発は1935年からで、39年になってになってようやく支給の運びとなったに過ぎません。この当時、すでにドイツ軍ではフェルトブルゼは完全に行き渡っており、既述のようにトラーゲグルテを廃止して戦時体制に移行しつつありました。上記の「アメリカ軍は余裕があって、独立した野戦服をもって...」という昔ながらのアメリカ軍野戦服論はまったく事実とは異なっていたことになり、野戦服に独立性を与えるという構想はドイツが先行していたことになります。

実物のトラーゲグルテは入手困難なアイテムの代表格でしょう。損耗率も高かったであろう事から、その織り出し製法の利点を生かし、かなりの数が生産されたのでしょうが、現代への残存数はとても少ないものになっており、残念ながら高レベルの収集品となっています。これには本文中で少々触れたように、廃止となったトラーゲグルテは回収されて切断され、8センチの長さに戦時型フェルトブルゼのザイテンハーケン固定具として使用されていたこと、またその構造を生かして、バックル閉鎖式の装備の皮部分の代用(リュックサックの閉鎖具)など再利用されていったため、本来の姿で残っているものはとても少量であるからです。しかしその反面、織り出し製法を使用したアーチ状の形状など、特殊な構造から、いまのところ悪意ある複製は確認されていません。レコレクショヌールではこのトラーゲグルテの実物を現在までに10数ペア入手し、日本国内で販売しました。トラーゲグルテは廃品として再利用された、という事情から生産国のドイツではなかなか見つかりません。レコレクショヌールが入手の機会を得たのはオランダ、ベルギー、ロシアなどの個人コレクターからでした。そしてやはり残念ながら価格は予想通り低いものではなく、ユーロや各国通貨で2万円以上してしまうことから、レコレクショヌールの販売価格で3万円前後してしまうものです。しかしながらレコレクショヌールでは今後もこの魅力ある「隠れた主要装備」トラーゲグルテの入手に向け努力を続けてゆくつもりです。

入手国:オランダ

レコレクショヌールの購入価格:日本円2万円代前半相当のユーロ貨


【コレクション・カテゴラライズド 3】

フォークランド紛争時
アルゼンチン軍ホルスター

準備中です ミリタリアのコレクションは、WW2におけるドイツ軍ミリタリアのように、常に相手方、敵方であった国家のものが先行するというのはいつの時代でもありうることで、これはミリタリア、軍装品というこのジャンルは欧米ではWar Souvenir、「戦地から持ち帰られた記念品」という呼称を持っていることでも裏付けられます。フォークランド紛争でイギリス軍と交戦したアルゼンチン軍の野戦装備はサスペンダーにベルト、FAL小銃の弾薬関係ポーチとバヨネットフロッグを基本に組んでゆく、コンヴェンショナル―基本的な、典型的なものです。以前よりイギリスでの仕入れの際にぽつぽつとポーチを中心に集めていったものですが、興味深いのは一度、WW2イタリア軍の日本人コレクターが困り果てた様子で、「アメリカのとあるオークションでWW2イタリア軍野戦サスペンダーとして落札したのだけれど、だまされた。これはイタリア軍ではないよね。」といって見せてくれたのが、アルゼンチン軍フォークランド戦時のH型サスペンダーでした。もちろん私はこれを買い取り、打ってくれた友人もまさかの失敗リカバリーで大喜び。私たちは、だまされた、または自分の知識不足で失敗した、というつらいケースを軍装コレクションの「事故」と呼んでいますが、こういう楽しい事故も時折あります。このサスペンダー、デザイン自体は幅広、H型であり、またこれに連結されるコットン製パック(雑のう)はアメリカ軍M56に準じた機械化部隊様式の腰部固定小型パックとなっているなど、新しい歩兵装備の概念を取り入れています。ところが、これらの新構想に全く相反するのがその素材で、1980年代であるにもかかわらず、皮革にグリーンの塗装をほどこし、金具類はすべて錆を吹く可能性のある鉄製です。南米でも有数の軍事大国であるアルゼンチンがこういった自然素材の野戦装備を採用した背景として、アルゼンチンでは牧畜・酪農が主産業であり、食肉生産と皮革産業であることがその理由であること明白です。大規模な資本投下が必要な綿製装備品の生産よりも、国内で生産が可能な皮革装備の生産を行ったわけです。とはいえ、フォークランド紛争時には少数ながら各国なみのナイロン装備も登場しております。当初英国人コレクターですら、当時の写真から判断して、アメリカ軍純正品をアルゼンチン軍コマンド部隊などが自費購入して使用していたと誤解していたこのナイロン装備はアルゼンチン国内生産によるもので、Tempex、テンペックスナイロン装備として知られるようになりました。メタル部分は、合金を使用するアメリカ製に対し100%鉄製、調整機構も固定機能のためのみの鉄製部品があるアメリカ製に対し、本来は折り返し部分を抑えるための各末端2本のスライダーの金属硬度を高め、固定金具として併用しています。このため、ナイロンベルトの末端は切り離し、熱処理でほつれ度目をしてあるだけです。写真のホルスターはやはりイギリスで見つけたものですが、同様のものはアメリカでも一度入手したことがあります。上記のように、アルゼンチン得意の皮革を使用した構造で、FNハイパワー9ミリを収納するものです。興味深いのは閉鎖具で、ドイツ軍にご興味のある方なら親近感のある構造、P38ホルスターの閉鎖具に範をとったもので、これはFAL弾薬ポーチにも使用されています。フォークランド時アルゼンチン軍装備で共通しているのが、破損箇所や傷みが多いことです。このホルスターにも傷みがあり、このことは不思議に思っていたので、以前に何度かアルゼンチン軍装備を購入したことがある、もう年配といえるイギリス人に質問したところ、「当時武装解除により鹵獲された皮製装備がたくさんあった。被服は少なかった。なぜかこのように傷んでいるものが多かった。イギリス軍で官給の装備をこのように傷ませたら大変なペナルティを受けるものだ。」という発言がありました。アルゼンチン軍は手入れの棉・ナイロンに比べ、手入れの必要性の高い皮革装備の手入れをおざなりにする。これも北米・欧州西部の軍隊のアイテムのみに触れることが多い私たちにとっては戸惑うことなのかもしれませんが、どこの国にでもあり、それぞれの国によって異なる軍隊の様々な要素にはその国の歴史と文化、国民性が反映されるわけですから、外国文学や言語を学ぶのと同じような楽しみがあるような気がします。

入手地: イギリス

このアイテムはマーチャンダイズ(販売物品)です。
購入原価30ポンド(約6000円)のホルスターとものと入原価25ポンド(約5000円)の2点がございます。
この変わったジャンルと装備にご興味をお持ちいただけた方はメールなどでお問い合わせ下さい。
このマーチャンダイズにレコレクショヌールが希望する利益は30%程度です。


【コレクション・カテゴラライズド 2】

WW2アメリカ
Dディ・アサルトヴェスト

トップページで画像をご覧いただけるアサルトヴェストについて大変多くのご質問を頂きました。レコレクショヌールでは実物アサルトヴェストは今まで4枚輸入しております。アサルトヴェストの生産数は1万程度(うろ覚えです。資料があるので確認します。)ですのでこれはかなり幸運な数字ではないかと思います。2枚はアメリカから、2枚はフランスからです。アメリカ軍コレクションが本国アメリカでは手に入らない、というアイテムの良い例で、最後に日本に入ってきたことが確認されているアサルトヴェストはフランス→アメリカ→日本という経路をとっています。サイトの画像のアサルトヴェストはおそらくだいぶ以前に販売したものだと思います。4枚の中にはほぼ未使用状態のものもありましたし、使用されているものも、1枚1枚が異なるものでした。では、使用品は当時フランスの農夫が戦場で拾ってとっておいたものか!または29師団のベテランが持ち帰ったものか!という楽しい想像は残念ながらファンタジーで、このベストは他の上陸作戦用に製作された装備と同じく使用されずに残っていたものを「ポケットが沢山あって便利」という理由から通信隊などで戦中戦後使用されていたようです。(存命のアメリカ人に面談しての証言)このうち1枚は自分のコレクションに残してありますが、レコレクショヌールは自分のコレクションにはかならず「使用品」を残します。使用品を選ぶ自分の嗜好もあるのですが、ミリタリアはドイツ軍関係などを中心に、高額なものは特に、真贋鑑定に迷った際、使用品・中古が手元にないと参考にできないからです。新品の質感などは他の新品装備などで理解できますが、実際に使用されたらどこがどう擦れるか、どう日焼けするか、というのは適度な使用品をいじくりまわさないと理解できないからです。人間が一定の年月をかけて作った使用痕は、どのように工夫しても、また毎日着用していても、最近多くなった酸化剤を使用しても、当時現地で使用したような状態には絶対なりません。現在までにWW2ドイツ軍のような、だまし目的の、悪意ある複製アサルトヴェストが2点確認されています。困ったことに、これらは実物として販売され、流通しています。このうちの1点はとても巧妙で、レコレクショヌールがもっている実物・使用品とつきあわせて鑑定しました。ところでアサルトヴェストの研究、認知度の確立は本国アメリカではなく、フランス・ベルギーを中心にはじまったものです。本国アメリカでは多くのアサルトヴェストが実写写真で確認されたにもかかわらず現物がなかったため(上陸作戦に使用するものは、何でも船に載せて、イギリスへ運ばれました。上陸後はいつドイツ軍の反攻があり、イギリスへ追い返されるか知れませんから、何でもかんでもドーバーを越えてフランスや次いでベルギーへ送られました。アメリカ本土に上陸作戦関係物資が大量に残っていてれば、担当の人間は税金の無駄使いと非難の対象になったことでしょう。この点、ベトナム戦争の新型装備が日本に多く残っていた、という状況と似ています。)、だれも意識せず、(実際には胸に斜めにつける特殊ポーチと上下2段の特殊背嚢だと思っていたとのことです。)その存在も語られることは少なかったようです。その後ヨーロッパの倉庫に残されていたアサルトヴェストがコレクションとしてひろまり、ヨーロッパのコレクターを中心に研究が急速に進んだいうのがアサルトヴェストが希求されるきっかけでした。アメリカ人たちは50年前に自国が作った装備をヨーロッパから高く買わなくてはなりませんでした。(これは国内に残存数の少ないWW2日本軍の装備を私たちが購入するのと同じかも)日本でのアサルトヴェストの研究は以前からなされており(日本人コレクターの名誉のために申し上げると、映画「ライアン」以前から、です。)、当時アサルトヴェストという名称を知らず、「工兵ベスト」とか、フランス語資料そのままで「ジレ・ダッソゥ(gilet d'assaut)、アサルトヴェストの仏語直訳」と呼んでいたことが思い出されます。今思うと以前は銃器中心で軍装はおまけ、といった時代から、現在のようにコレクターのレベルが高まり、鉄砲そっちのけになったのも、アサルトヴェストが意識されだした90年代初頭からのような気がします。この装備と被服の中間のようなヴェストについて興味深いのは、アメリカ軍にとって上陸作戦関係装備は、一時的な、仮の物、という認識があった事実があります。当時はアメリカは他国の領土へ侵攻する国であってはならないいう意識がありました。例として、このアサルトヴェストと対になるような特殊装備、M5ガスマスクの名称「アサルト・ガスマスク」は上陸後、「アサルト」という過激な名称を嫌い、わざわざケースの名称を上書きして塗り替えてまで、「コンバット・サービス・ガスマスク」と変更されています。もし、アサルトヴェストが使用上の種々の問題を克服して、兵士たちに好まれていたとしたら、「M1945コンバット・サービス・ヴェスト」と命名されて、WW2時代からさらに色も濃くなってOD7色調が定着し、朝鮮戦争でも使用され、ナイロン化までされていたかもしれません?アサルトヴェストについてはまだまだ面白い話がたくさんあるのですが、ヴェストの研究文書については仏文訳によるゼロックスコピー版資料小冊子「ノルマンディー上陸部隊の特殊装備」を販売しておりますのでご興味のある方はお問い合わせください。

入手国、先代オーナー: フランスでの1枚、個人コレクター
**その後過去2年間で入手機会なし。

レコレクショヌールの購入価格 12、000フラン(約250,000)
販売価格 ¥380、000
(このアイテムは販売済みです。現オーナーの承諾を得て掲載しております。)


【コレクション・カテゴラライズド 1】

WW2ドイツ
ヴァッフェンSSシルム・ミュッツェ

準備中です この制帽はフランス人コレクターが20年前に購入し以来ずっと自分のコレクションに留め、ついに手放すことを決心したものをレコレクショヌールが日本へ持ちかえったものです。実物、手付かずのヴァッフェンSS制帽としては非常に良好な例といえます。兵科パイピングは騎兵・装甲兵科のゴールデンイエロー、本体はフィールドグレィ、バンドは黒ベルベット、典型的なSS野戦将校の印象を実感できる制帽です。この「野戦将校の印象」はこの制帽を実際に手にし、その細部を観察するとさらに、随所に見られる造りの「荒さ」で強まります。この荒さはこの制帽を当時所有していた人物が、制服調達に資金を潤沢に使用できない下級将校であったことを伺わせるものです。帽章は低級の材質である亜鉛製です。低級ながら鋳型製造に適した亜鉛はこの鷲と髑髏の帽章に良好なディティールを与えており、深い部分はしっかりと深く、浅い部分は浅いながらもしっかりとした線が刻まれており、個々のモールドはあくまでもシャープです。参考とするならば、この帽章だけをみても、よく質問されるSS帽章の悪意あるレプリカに対する恐怖心は和らぐことでしょう。ドイツ制帽の特徴である「つば」の素材バルカン・ファイバー、この制帽では芯素材は茶色、表面より黒塗装、背面からは緑が塗装されています。バルカン・ファイバーとはプラスチックのようなもの、と誤解されいることが多いものですが、この言葉は英語で、Vulcanize、塩素化合物を使用して硬化させた素材で、実際には布、または紙を本素材としています。ドイツ軍制帽の弱い部分で、保管時に注意しなければならないのが、このつばの左右の末端部分で、耳ボタンのあたりが垂直に割れてしまうことが多くあります。残念にも壊れてしまったこの部分の切断面からは本素材の紙がのぞいていることが多くあります。帽章の下は黒のベルベットです。SS制帽の複製の可能性としてよく言われているのが、「戦後大量に残っていた陸軍の実物制帽を一度分解し、黒バンドをつけてSS風に改造した」だまし目的のものがありますが、こういったものの区別の方法としては以下のものがあります。まず、ベルベットの素材です。軍で使用される装飾素材全般、特に戦時下では、ベルベットのような素材は「形だけ、そうであればよい」訳で、現在のベルベットのように、「質が悪ければ売れない」ものとは根本的に異なります。この制帽のベルベットも、現代のものとは異なり、毛足は短く、その感触は「剃り残しの髭」のように硬いものです。現代にはこのような粗悪なベルベットは存在しえません。また、改造制帽の場合はバンドの上下、兵科色パイピングの縫い代の部分が深く織り込まれており、複製の場合は触ってみると縫製作業を容易にするため余裕をもたせるように広く折り込まれています。実物の場合はこの押し返しは幅が広くても2ミリ程度、この制帽の場合は触ってもほとんど折り返しがわかりません。このように、実物であることを求めるには、視覚によるもののみならず、指による「触感」が求められる場合が多くあります。制帽の本体を構成する芯はやはり紙製です。この制帽の最大の特徴はパイピングです。ドイツ制帽の色を表すパイピングは羊毛素材を「U」字型にして、本体の素材へ縫いこんでゆくもので、陸軍の初期型肩章と同じく、高密度の羊毛素材が使用されていることが多いのですが、この制帽ではコスト削減のためか、芯のない荒い圧縮ウールが使用されています。ドイツ制帽先般についていえることですが、内装の化繊による「擬似」シルク状素材はつねに手触りの良い、良質なものが使用されていますが、これはドイツの産業自体が化繊繊維の生産に長けていることからです。最後に将校を表すチンストラップは、金属成分の高いもので、これは温度に敏感な手の甲などを押し当て、感覚的な「冷たさ」を見ることによって認知できます。(化繊糸を使用した当時の実物も存在します。しかしながら多くの場合制帽のあご紐とはナポレオン時代以降のシャコ帽の金属製あご紐などに現れるように、軍の威厳を表現するものであることから材質は下げることは稀です。)製造社が記された透明プラスチック製の「スエットダイヤモンド」はドイツ制帽からほとんどの場合取り去られており、固定していた糸が残っています。

入手国、先代オーナー: フランス、個人コレクター

レコレクショヌールの購入価格 1300ユーロ(約¥160,000)
販売価格 ¥240、000
(このアイテムは販売済みです。現オーナーの承諾を得て掲載しております。)


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